法然上人の教えを基に近隣の皆様の幸せを祈念しています
ACCESS
檀家様の心の拠り所でありたいと考えます
法然上人の「お念佛」の教えは、無量寿経・観無量寿経・阿弥陀経という経典をよりどころとしており、法事・年間行事・お彼岸・ご供養などではこれらの経典を読経しています。また「お念佛」の教えでは、そうした各式典において、故人様・ご先祖様の供養だけでなく、檀家様自身の幸せ・心の平安についても祈念しています。
法然上人の教えの本尊は阿弥陀佛(阿弥陀如来)です。「無量寿経」では、「設し我れ仏を得たらんに、十方の衆生、至心に信楽して、我が国に生ぜんと欲して、乃至十念せんに、もし生ぜずんば正覚をとらじ」とあり、阿弥陀佛(阿弥陀如来)が、どのような人も素直に「自身が煩悩を捨て入れない未熟な者であること」を認めて、一心にお念佛を唱えて救いを求めれば命終わるとき必ず来迎くださると説かれます。
福岡市内の地域密着のお寺として、今後も法然上人の教えを基に近隣の皆様の幸せを祈念してまいります。
教えによって仏の救い力を他力として求めていけるようになります
TEMPLE
「お念仏」の教えでは、自分は煩悩を捨てきれない凡夫であることを素直に自覚することが重要になってきます。自力では悟りきれず不安や苦労から逃れられないと認めることで、自分ではない大きな仏の救い力を他力として求めていけるようになります。そうした法然上人の教えの内容を、法事・年間行事・お彼岸などでも説いています。
「お念仏」によって現世の不安・苦労からも解放されていきます
PROFILE
檀家様の現世の明るい人生を見守ってまいります
人の欲望は止まることを知らず、うまくいかないと羨望・ねたみなどの邪な感情を引き起こします。こうした煩悩に振り回され、悩み・苦しみにさいなまれながら平安を得られない・希望の光を見いだせない迷子のような状態を「無明」と言います。
どのような優秀な方であってもこの「無明」から中々抜け出せないのが現状です。しかしここで大事なことは、この「無明」から抜け出せない「凡夫」である自身を責めるのではなく、驕り高ぶらずに自身が「凡夫」であることを認めることです。素直に自身の至らなさを認めることが、素直に救いを求める姿勢につながってまいります。宗祖法然上人でさえ、自身が「凡夫」であることをお認めになりました。しかしそのお陰で、救いの道にたどり着いておられます。つまり、自身の至らなさを素直に認めることが心の平安を得るためのコツとも言えます。「お念佛」の本義はここにあります。
自身の至らなさを悟って一心に阿弥陀佛(阿弥陀如来)に向かって救いを求める姿勢が心に安らぎを与え、そこに生まれた心の余裕が謙虚さ・感謝・思いやりなどへと繋がっていきます。