宗教法人西方寺

福岡 博多 浄土宗のお寺 西方寺

西方寺について

普段生活を営んでいる皆様の心の平安を導いてまいります 

西方寺の歴史

法然上人の強い信念によって導かれた「お念佛」の教えを語ります 

浄土宗西方寺は皆様に、誰もが気負わずに触れられる法然上人の教えについて詳しくお話しています。「お念佛」を通して、故人様・ご先祖様の極楽往生を祈念するだけでなく、普段生活を営んでいる皆様の心の平安も導いてまいります。
法然上人の「お念佛」の教えは、誰でも素直な気持ちがあれば日々の生活で幸せを得られる門戸の広い仏の教えです。佛の救いを求める気持ちは皆同じであるのだから平等に救いも得られるはずである、という強い信念によって導かれました。


寳樹山 浄土院 西方寺



 西方寺への道は、櫛田神社前の土居通りを海の方角へ、明治通り、昭和通りの信号を渡って十分ほど歩くと右側にある、山門を構えたお寺です。
 寺伝によりますと、西方寺の開山は浄土真宗第二祖聖光鎮西上人の弟子良阿明源上人といわれております。この上人は北條氏の出で、五十三歳の時に天台宗から聖光上人の浄土宗に転じられました。良阿明源上人は鎌倉初期の安貞元年(1227)、76歳の時には博多冷泉律の辺りに一字を創建し、西方寺としました。
そこ(西町上)には当時池があり、人びとは西方寺柳ヶ池(博多の古地図は柳ヶ池)といい、
池畔には薬師如来の石仏を祀っており、寺に良い霊地であったといわれております。
それは明源上人のごく晩年のことであり、上人はその四年後の寛喜三年(1231)に80歳で入寂されました。その楊(柳)ヶ池の場所には、現在の明治通りの呉服町交差点から少し土居町寄りの日立ビルの前に「楊ヶ池神社跡」の石碑と説明板があります。

 

空襲の猛火から残った地蔵尊 

 西方寺は、室町時代の寛正2年(1461)に大火で焼失、永正年間(1504~1521)に現在地に移転いたしました。ほぼ500年、住職も24世から59世の現住職まで35世を数え、この地で浄土宗の法統を守り続けています。江戸時代の博多の古地図には、寺の前の道に「西方寺前町」と書き込みがあり、寺名を冠した名前が付けられていたことが分かっています。
 昭和20年(1945)6月の福岡大空襲で、西方寺も罹災し、諸堂や仏像、伝来の什宝や文書、庫裏も家財も全て灰に帰してしまいました。助かったのは先代ご住職の進誉上人が、焼夷弾の黒煙熱風の中から決死の思いで持ち出したという過去帳と、万霊塔の上に祀られていた地蔵尊一体だけでありました。この地蔵尊が現在、山門横の御堂に祀られる地蔵尊二体のうちの大きいほうで、もう一体は戦災で亡くなった町内の人たちを祀る戦災地蔵尊です。

現在も空襲のあった6月19日には戦災法要を勤めています。 

今に語り継がれる浄土宗の教え

 焼野が原となり、石堂川沿いの正定寺の一室を借りての寺務所から再スタートした西方寺は、一時は移転も検討したといわれていますが、やはり現在地での復興、再建を決め、堂々とした努力が続けられました。新しい都市計画によって墓地の再建が困難になり、まず御霊屋兼納骨堂(霊光殿)を建立、現本堂の落成は昭和42年(1967)となりました。さらに戦災で焼失した諸尊像、薬師如来像、本尊脇侍の観音・勢至菩薩像、法然上人像、開山上人像などが次々に再建されました。それらは第57世進誉上人と、その法嗣として昭和37年(1962)に入寺された第58世泰誉上人のお二方が、力を合わせての大事業の遂行でありました。

 西方寺は昭和52年(1977)、秋の「開創750年慶讃大法要」を機に、第57世進誉上人が住職を引退し、58世泰誉上人に引き継がれました。進誉上人は大正3年(1914)に入寺以来64年の長きにわたって住職を務められ、その在任期間は西方寺開基以来の最長となっております。また、その後半生は戦災で焼失した寺の復興という大事業を成し遂げ、大きな功績を残しての退任となりました。西方寺の山門の横には江戸時代の町名「旧西方寺前町」と彫った石碑が立っております。

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