衆生の救いを願う法然上人の教えをお伝えします
西方寺
法然上人の御教えはシンプルです
「お念仏」は、救われたいと想う気持ちがあれば万人が実践できる教えです。浄土宗西方寺はそうした法然上人の教えを博多の皆様に分かりやすく解説しています。これからも、一人でも多くの近隣の方々にみ教えをお伝えしていきたいと考えています。
仏の教えを初発にお説きなられたお釈迦様の衆生の救いを願う想いは、法然上人の「お念仏」の教えにも引き継がれ、お亡くなりになった方々の往生だけでなく、一般の方々の幸せも祈念する教えとして今日に伝わっています。
本堂
法事やご自宅の仏壇などで、一心に阿弥陀仏(阿弥陀如来)におすがりするつもりで、称名である「お念仏」をお唱えすることが、故人様・ご先祖様だけでなく檀家様自身の救いにもつながっていきます。宗祖である法然上人は、「悟れない凡夫だからこそ一心に阿弥陀如来様におすがりできるのだから、素直に自分の未熟さを認められる謙虚さがあれば誰でも救われる」と説いています。
法然上人は比叡山で修行していたころからその抜きん出た才能を周りから評価され、「智慧第一」というトップの学僧として称されるほどの成績を上げていました。しかしそのような優秀な法然上人でさえ、「自分は悟れない凡夫である」と自身を戒めながら本当の救いの道を追求していたといいます。そうした法然上人の教えを檀家の皆様に分かりやすく説いています。
納骨堂
仏教の教えは、人生をかけて修行する方や専門の研究者にしか理解できない難しいもの、として認識している方も少なくないのではないかと推測します。確かに悟りは一心に求めて初めて得られる尊いものですが、法然上人は、救いを求める心は皆同じで仏の救いは皆が平等に得られるもののはずである、という強い信念を持って救いの道を模索されました。その結果たどり着いたのが「お念仏」の教えです。
煩悩を捨てきれない者こそ素直に自身の至らなさを受け入れられ、その純粋さを持って阿弥陀仏(阿弥陀如来)の助けを求める(他力を求める)ことで極楽につながれる(往生できる)という教えは、修行・研究を行わずとも純粋な気持ちがあれば誰でも仏の世界を感得できる救いの道です。「お念仏」は求める気持ちがあれば、万人が実践できる教えです。
お地蔵さま
仏教の教えは、人生をかけて修行する方や専門の研究者にしか理解できない難しいもの、として認識している方も少なくないのではないかと推測します。確かに悟りは一心に求めて初めて得られる尊いものですが、法然上人は、救いを求める心は皆同じで仏の救いは皆が平等に得られるもののはずである、という強い信念を持って救いの道を模索されました。その結果たどり着いたのが「お念仏」の教えです。
煩悩を捨てきれない者こそ素直に自身の至らなさを受け入れられ、その純粋さを持って阿弥陀仏(阿弥陀如来)の助けを求める(他力を求める)ことで極楽につながれる(往生できる)という教えは、修行・研究を行わずとも純粋な気持ちがあれば誰でも仏の世界を感得できる救いの道です。「お念仏」は求める気持ちがあれば、万人が実践できる教えです。
石碑
法事・年間行事・お彼岸・ご供養では故人様・ご先祖様の平安を祈ると共に、檀家様の幸せ・安心の人生・明るい生き方などについてお気持ちに寄り添いながらお話しています。法然上人の教えでは、心の平安を得られる「西方極楽浄土」に至ることを「往生」と言い、亡くなった方々の往生と併せ、現世で煩悩にまみれながら苦労・不安と闘っている、生きた世界の方々も阿弥陀仏(阿弥陀如来)の称名を一念すれば、滅罪・護念・見仏などの現益(現世利益)を得られるとしています。
無量の光・無限の命を意味する「阿弥陀」を冠する阿弥陀仏(阿弥陀如来)は「西方極楽浄土」の管理者であり、脇侍として観音菩薩と勢至菩薩を置きながら、衆生の救済に当たっておられます。記事では法然上人からお導きいただいた仏の救いのお話を分かりやすく解説いたします。
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